過去の経験談

運営者の生きた道

運営者
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この記事は運営者の生きてきた経歴の全てのみが書いてありますので、ご興味のある方のみ読んでいただければと思います。

私の人となりが分かるように包み隠さず書いていますので、読んでいただけるのであれば感動です。

幼少期〜高校時代

「ここが人生の全盛期!!笑〜同時に人生で最も過酷だったと感じる青春時代〜」

私は、地方のど田舎の一般的な家庭に生まれました。

昔ながらの物静かな父親、優しく、真面目な母親。そして歳の離れた兄が2人。

一般的な世帯年収。

世の中にありふれた一般的な家庭だったと思います。

小学生時代は兄の影響で小3からバスケットボールに熱中。

時間があれば外でも家でもバスケ。

友達と遊んでいる時以外は、ただひたすらボールを触っていました。

両親から「流石にそろそろやめなさい」と止められる程でした。笑

その甲斐あって小6時には全国大会へ出場。

副産物というべきか自然と持久力もつき、陸上大会でも県1位に。

ここで努力すれば報われるんだと思うことができた反面

徐々に「親の期待、先生や色んな人の期待に応えなければ」と周囲の期待が楽しかったバスケットボールや走ることを責務(やらなければいけないこと)へ変わっていきます。

そんな思いを持ちながら、そのまま中学へ入学。

もちろんバスケ部へ。また、小学校時代の陸上での成績をかわれ、期間限定の駅伝部へ半強制的に入部。

周囲の期待は続き、中学生になるとますます「周りの目」が気になり、「優等生」を演じる毎日になります。

授業が終わると部活へ。時間があれば駅伝の練習、また部活の毎日。

365日のうち、休みは10日あるかないかの日々を3年間。

長期休み中もAMは駅伝部の練習、PMはバスケの練習でした。

当時、「頑張って当たり前」「結果が出せないなんて許されない」という周囲の目を常に意識していた私はいつもプレッシャーの中、なんとか結果を出すべく、必死に練習に励んでいました。

周りの同級生や先輩からは「いいよな結果が出る奴は」「俺らは試合にも出られないのに」といった発言を聞くこともありました。

私の両親も「お前は頑張って当たり前だ」「むしろお前は引っ張る立場なんだからもっと頑張れ」と言った感じでした。

その言葉を受けて毎日、体育館が閉まる、一番最後まで自主練に励み、必死に練習していたのを覚えています。

そのため、常に精神的、身体的にもクタクタで家にいる時はほぼ寝ていた記憶が今でもふとした時によみがえることがあります。

「自分はなんでこんなに頑張らなくてはいけないんだろう」

「誰のために頑張っているのだろう」

自問自答する日々が続きました。

県内では勝って当たり前、負けると顧問には怒鳴られ、学校の外周(500m20周)などの罰を与えられたことを覚えています。

そんな中、なんとか結果を残すことができ、最終的にはバスケでは地方大会で3位、駅伝では全国で4位という成績を収めることができました。

また、個人でも駅伝での練習が功をなし、陸上部の大会にも出場し、3000mという種目で県で1位になり、全国大会に出場。

全国でトップレベルの選手達と走り、そこで初めて自分の限界を超えた気がしました。

走ったのは9分弱という時間でしたが、走り終わっても数時間、息切れが治まらず、意識がもうろうとしていたのを思い出します。

中学3年生にして今振り返っても人生で最も身体的に自分を極限まで追い込んだ唯一の経験になりました。

しかし、その反動もあり、ここで人生で初めての「バーンアウト(燃え尽き症候群)」も経験します。

大会が終わってからは何にも手がつかず、学校から帰ると何できない日々が続いたのを覚えています。

ここで、「陸上はもういい」心の底から思いました。笑

心も体も極限だった私は本当に「死」を考えたこともありました。

ですが、そんな状態の私をある先生、兄が救ってくれることになります。

その先生とは通っていた中学の陸上部の先生でした。

駅伝部の先生でもあったその先生はいつも優等生ぶっている私に「頑張りすぎてない?」「しんどいときはしんどいって言っていいんだよ」と声を掛けてくれました。

今振り返ると、当時、精神的にも身体的にも追い込まれてた私が限界を乗り越えられたのはこの先生の存在が大きかったのだと思います。

次に兄の存在でした。

長男とは歳が7つ次男とは5つ歳が離れていたため、当時次男は大学へ、長男は既に就職していました。

ケンカはほとんどなく、会話も多いわけではありませんでしたが特に次男は実家に帰ってくる度に「一緒に出かけない?」と弟の自分を気にかけてくていました。

次男は陸上の推薦で大学へ進学していたため、身体的な私の辛さを分かってくれ、「お前はすごいな」と家族の中で唯一褒めてくれ、認めてくれました。

元々そんなに足が早かった訳ではない兄が努力で結果を出している姿を見ていた私は兄を尊敬していました。

その尊敬していた兄にこの言葉に言われ、心の底から嬉しかったのを覚えています。

 

苦しくて仕方のなかったこの中学時代での経験は「バーンアウト」の代償に「限界を乗り越えられた自信」「自分を支えてくれる人がいることの実感」となりました。

高校へ入学し、陸上は中学でやりきったという思いで、バスケ一本で頑張るためバスケ部へ入部しました。

過去に成績を残したすごい先生がいたこと、1つ上の代にバスケで成績を残していた先輩がいたこと、

小、中でのチームメイトも進学をすると聞き、受験勉強に励み、県内でも有数の進学校になんとか入学できました。

高校でも引き続きバスケ漬けの日々。

自転車で片道45分の道を通い、朝7時に家を出て、夜10時に家に帰るという生活を3年間することになります。

バスケでは中学からの実績もあり、高1の4月末の大会から公式戦に出場することに。

この頃も中学同様「特別扱い」を受けていた私は他の同級生、先輩から「お前はいいよな」「1年のくせに」と言われていたこと覚えています。

その度に実力で勝つため、バスケだけでなく、ランニングメニューでは絶対に先輩に負けないように常に自分を追い込んで頑張りました。

また、私生活でも周りの人に認められようと、高校生活でも常に真面目に生活する優等生を演じます。

できる限り変な噂が立たないようにクールぶって友達とも自分からは仲良くしようとは思いませんでした。

その結果、高校で本当に仲良くなったバスケ部以外の友達はほんの数人程度でした。

高校のバスケ部の顧問の先生は県内でも厳しくて有名な先生で、ビンタ、蹴る、坊主にさせる、何十km走らせるなどは日常茶飯事。笑

3年間いかに「先生に怒られないように頑張るか」という日々だったなと思います。

ですがそんな苦しい日々も今ではいい思い出になりました。笑

また、そんな日々を一緒に乗り越えた仲間とは今でも定期的に会い、会う度にそんな昔話をします。

そしてみんな「あの頃に比べれば今は全然余裕だよね」という話に行きつきます。

私にとっても中学同様に決して忘れられない3年間になったとともに、

この3年間で自分一人では挫折していただろうことも仲間がいたことで乗り越えられたんだな。と今では思い出すことがあります。

高校3年間は本当にバスケ漬けで唯一の休みはテスト期間の2週間のみ。

入学早々、生活の変化、公式戦への出場でいっぱいいっぱいだった私は1年生から既に勉強についていけない状態になっており、授業が苦痛で仕方なかったのを覚えています。笑

元々自頭がよい訳でもなく、要領が悪い私はテストの2週間で10科目に対応できるはずもなく、追試受ける。その繰り返しでした。

幸い、バスケ方で1年時は県で準優勝、2年時は先輩方の力もあり、インターハイ、ウインターカップに出場したり、地方大会で優勝するなどの好成績を収めることができました。

その結果、全国で戦うこと意識し始め、常に自分より上手い人、凄い人を意識するようになっていました。

その時の経験が今でも「自分は本当にこのままで良いのか?」「もっと自分にできることはないのか」という「向上心」に繋がっているのだと思います。

しかし、そんな中、それまで県内ではほとんど負けなしだったはずが、最期の大会の準決勝で足元をすくわれることになります。

その結果、自分の代ではインターハイには出られず、悔いが残る形で引退することに。

「なぜ負けてしまったのか…」負けた瞬間は何も感じず、その後は、自分達がいるはずの決勝戦を無心でボーッと見つめていました。

その日の夜、ジワジワとその現実を受け入れ初め、涙が出てきました。

顧問の先生からは「お前達はやらされているからダメなんだ」「主役は自分達なんだから」と最後の話を今でも思い出します。

その悔いが尾を引き、大学を選ぶ際にも、バスケを続けていくという選択肢をとることになります。

バスケを続けるため、得意だった「運動」「スポーツ」を生かすため、当時の顧問の薦めで関東の大学への進学を決意。

本当は国立の大学に行きたかったのですが、学業の成績が悪かったため、国立の大学へ行ける訳もなく、私立の大学に的を絞り、何とか合格することができました。

高校生活ではバスケ一本に集中し、受け身で「やらされるのではなく」自分が主体となって行動することの大切さ、もっと上を目指そうという「向上心」を培い、自分一人ではなく仲間の大切さに気付くことができました。

大学生

「挫折〜井の中の蛙とはこういうことか〜」

大学でもバスケ部に入部し、週6で練習し、4年間続けることに。

しかし、ここまで順風満帆だったバスケで人生最大の挫折を味わうことに。

1年生の時から1軍チームで練習するも先輩、名門校出身の同級生に全く歯が立たず、2ヶ月で2軍へ。

この時、常に県代表として活躍してきたはずの自分のプライドは儚く散り、自分がいかに「井の中の蛙」だったかを思い知らされました。

しかし、ここで諦める訳にはいかない。

悔しさと県代表だったというプライドから、まずは今までやってこなかった体づくりに取り組みました。

ウエイトトレーニングでは自分の体を死ぬ気で追い込み、体脂肪率は4%1軍、2軍も共通のメニューである、シャトルランは180回を超え、そこでチームトップに。

その努力が評価され再度、1軍へ。

しかし、実際のプレーではなかなか結果を残せず、ベンチメンバーに入れるか入れないかの日々が続きました。

毎年、名門高出身の後輩達にレギュラーを奪われ、気付けばそのまま4年生に。最後の引退試合も出場は数分という短い時間でした。

毎日、バスケを辞めるか、辞めないかの葛藤。

死ぬ気で努力したのに報われない状況に、努力しても無駄なんじゃないか、結果の出せない自分が悔しくて仕方ありませんでした。

夜中に突然、そんな結果しか出せない自分が悔しくて涙を流すこともありました。

でもこれまでの人生、バスケしかしてこなかったため、結局、辞めるという選択肢を選ぶこともできず、後悔が残る中途半端な4年間に。

4年間の大学生活で「死ぬ気で頑張れたという自信」の反面、結果の出せない自分を正当化し、環境のせいにするなど「言い訳をする」経験を得る

努力だけではどうにもならないことがあることを身をもって感じ、反対に大学生活を乗り越えたことでどんな状況でも今の自分を客観的に捉え、常に前向きに生きることの大切さ」を培うことができました。

社会人

「社会って怖い!!〜そんなの学校で教わらないし!〜」

バスケに人生のほとんどを捧げた学生時代。社会人になっても続けていきたいと思いました。

しかし、現実はそんなに甘くなく、バスケで生計を立てられる訳もありません。

とりあえず公務員になれば安定かなと思っていたこと、今まで親や学校の先生にお前は教師になれと言われ続けていたこともあり、バスケを教える為に、教師の道を目指すことに。

大学時代はガムシャラに勉強するも試験に受からず、非常勤という立場でバスケとは離れた特別支援学校へ。

非常勤は給料が低く、生活がギリギリだった危機感から、何としても試験に受かるため平日は勤務後に34時間勉強をしました。

配点や徹底的に過去問から傾向の対策を行い、何とか合格することができました。

あれだけ苦痛だった勉強も点が採れるようになると楽しく取り組むことができたこと、

社会人になってようやくただガムシャラに勉強するだけでなく、対策を練って効率よく勉強する大切さを感じることになりました。

無事に合格し、そのまま定年退職まで教師が続いていくんだと思っていた矢先、

1年目に人生観を広げるきっかけになる出来事が起こります

それは「保険」でした。今思えば、え?保険?ありふれた。と思いますが、当時の私には衝撃的な出来事でした。

教師になると必ずと言ってよいほど、教職組合と昔から結びつきが深い保険会社から営業を受けます。これは一般企業でも起こっていることかもしれませんが、公務員も例外ではありません。

保険会社の営業マンが生徒下校後に学校までやってきて1年目の教師をターゲットに営業を行うというものでした

その時、同期が4人いましたが、自分以外の3人はその営業マンの言う「校長先生もこれに入っていますよ」「この学校では〜人くらいの先生が入っていますよ」という言葉を聞き、保険に加入していました。

そんな中、自分は「そういえば保険のこと何も知らないな」と1から調べてみてから決めることにしました。

同期には「そんなことめんどくさいじゃん」「みんな入ってるからとりあえず大丈夫でしょ」と言われますが、自分で納得したものを買いたい私はとりあえず調べてみることに。

調べれば調べるほど、他社の保険商品の方が魅力的に感じましたが、営業マンは毎日のように来校し、保険を勧めてきました。

私の将来のライフ設計を作り、最終的には「御守りみたいなものだからとりあえず入っておいてもいいのではないか」と説得されることに。

「この人は本当に自分の為を思って提案してくれているのかな」と疑問でした。

自分が調べた内容を営業マンと確認し合いながら、10回程のやりとりを通して、自分が他の保険に加入を決めたことでようやく諦めたようでした。

めんどくさかったけど調べてよかったな。知らないことって怖いことなんだな」と心の底から感じる出来事でした。

「保険は」人生でトップ3に入る買い物 ということがなぜか頭にあったおかげで営業マンに流されることなく、自分で調べて決断することができました。

そんな買い物なのに言われるがままに自分が契約をしていたらと思うと相当もったいないなと思った出来事でした。

この出来事にきっかけに「保険以外にも知らないことって多いんじゃない」と思うようになり色々なことをまず調べてから行動する癖がつきました。

「保険」が入口だったこともあり、主に「お金」に関する「税金」「貯蓄」「職業の年収」などを普段自分が知らないことへ目を向け始めました。

お金について考えさせられた出来事①

「働く、お金を稼ぐってどういうこと?〜社会ではこれが普通?〜」

初めに、教員という仕事は一般的に言われている「公務員」とは少し違い、残業代は一切つきません。

それは「見込み残業」として初めから給料に上乗せをされているためです。また、昇給制度としては「経験年数」で決まり、仕事ができる、できないは関係ありません。

ポジティブに捉えると「1年ごとに必ず昇給する」、ネガティブに捉えると「どんなに頑張っても1年間は昇給しない」ということになります。

つまり、どれだけ仕事を頑張っても頑張らなくても給料は変わらないということです。

いや、そんな会社世の中にはたくさんあるでしょ!ということは感じていましたので、これが社会の普通なんだから仕方ないと自分に言い聞かせていました。

一定層のベテラン達は楽をして年齢に応じた高い給料をもらい、若い層にはどんどん仕事が降ってくるけど、給料はその年齢に応じたまま。

やはり誰に相談してもこれは仕方のないことだと言われました。

ベテラン達も若い時はそうだったんだからと

しかし、これにはなかなか納得することができず、他の職業などの現状などについても調べ始めました。

そんな中、教員3年目にまさにその不満が爆発することになります。

学校において「重い仕事」と言われるものが「部活」「行事」です。

当時私が勤務していた学校は特別支援学校だったため部活はありませんでした。

ですが、その分年間を通して「行事」が多い学校でした。

一般的に行事といえば「体育祭」「文化祭」などがイメージとしてあげられると思いますが、当時の学校では行事がもう一つあって年に3つ大きな行事がありました。

これらの行事は1年を通して準備が必要な仕事になるため、担当になると年中準備に追われる訳です。

担当はどうやって決められるかというと校長、教頭いわゆる上司が決めます。

ここまでくればだいたい察しがつきますよね。

私が行事の担当になったのです。

まぁ行事1つくらいなら全然あり得ることなのですが、なんと私が3つ全ての行事の担当になったんです。

当時勤務していた学校は大きな学校でだいたい80人くらいの教師がいました。

にも関わらず、教員3年目の私がなぜかその3つの行事を全て担当したのです。

「いじめられている?」と思いました。笑

そのことを周りの先生に伝えると周りからは「期待されているんだよ」「若いからね」と言われました。

上司の決定に逆らえるはずもなく、泣く泣く引き受けることに。

しかし、その1年は本当に悲惨なものでした。

毎日、準備に追われ、145時間サービス残業の日々。ブラック企業ですよね。

あっという間に1年が終わってしまいました。そんな中、ほとんど残業もせず、帰るベテラン達。それを横目にみながら、「なんで自分だけ」と思いました。

確かに結果的にそれらをやり遂げたことは自信にはなりましたが、目に見える評価は同僚の「頑張ったね」という言葉だけ。

内心「これだけやったんだから給料あげてよ!」と思いました。笑

きっと今の社会ではあるあるですよね。

これだけ時間を使ったのに…

気がついたら「これって時給換算にするとどのくらい?笑」と考えるようになっていました。

かたや毎日、定時帰る人もいる中でその人の方が収入は上。

一体なんの為にこんなに働いたのだろう。社会ってこんな理不尽なのかと不満がピークに達しました。

そんな不満を抱えたまま教員4年目に突入。

ここで更に人生の見つめ直す出来事が起きます。

1つ目はMLMの勧誘でした。SNSで仲良くなった友達ができ、週1くらいで遊ぶことに。

しかし、ある日、「面白い人が講演会するから行こうよ!」と渋谷にある施設の会議室へ連れて行かれることに。

それがアムウェイのセミナーだった訳ですね。その場は断れる雰囲気ではなく、そのまま登録することに。

幸いすぐに登録を解除したため、何事もなく終わりましたが「ああ、こういう世界もあるんだ」と教師以外の世界に目を向けるきっかけとなりました。

そんな最中、何気なく始めたマッチングアプリで出会う1人の女性との出会いがその後の人生を左右することに。

その女性とはカフェで話すことになり、話を進めていくと副業や起業のアドバイザーをやっているとのこと。

仕事に不満をもっていた私は「頑張ったら頑張っただけ収入になる成果給」に魅力を感じ、どうやったらそうなれるの?と興味津々に彼女の話を聞いていました。

すると彼女は「自分には師匠がいてその人の言う通りにやったらこうなれました」「もしよければその人に繋ぎましょうか?」と提案。

はい、怪しいですね。笑

アムウェイのこともあり、自分も内心疑いながらもとりあえず会いに行くのはタダなのでその師匠とやらに会いに行くことに。

現在も実在する建物の、とある部屋へ案内され、待っていると、長身の俳優さんのようなイケメン男性が出てきました。

何でも元大手企業の営業で新入社員時に全国1位を取った実績があるという人らしい。

オーラもあり、その時の自分は「この人、かっこいいな」という思いと「ここで行動しないと今後も今のままだ!」ワラにもすがる思いでその人の元で学ぶことを決意しました。

そこはビジネススクールのような感じで、契約料は100万円。

26歳の独身、一人暮らしの男が100万ものお金を貯められているはずもなく、融資を受けることに。

結局、誘導されるがままに消費者金融から利息13パーセントで80万円程の融資を受けて、持っていた貯金とプラスして100万円を払って学ぶことに。

スクールに入ってから、具体的な活動内容を知ることになりますが、結論から言うとそれもMLMだった訳ですね。

そこはビジネススクールを謳っており、自分が将来「商品やサービス」を売ることができるように「セールス力」を培いましょうというものでした。

しかし、当時の私には当然売る「商品」や「サービス」がないため、代わりにスクールを売らせてあげるよ、というものでした。

結果、そのスクールでした活動といえばマッチングアプリで集客し、自分が所属した100万円のビジネススクールを相手に勧め、売るというもの。

いかにそのスクール魅力的なものなのか、相手に応じてアプローチを変えていく。人間心理を勉強していく感じでした。

1年半続けたこのMLMも結果、売れたのは1件だけ。

自分を偽り、あたかも稼いでいるように振舞う、今いる環境はとても楽しいものだと魅力のあるものだと自分に言い聞かせました。

その悩みをスクールの人に相談すると自分達は相手が知らない世界をひらいてあげる手助けをしているのだからと、もっともらしい理屈を並べられ、説得されました。

自分は何とか借金を返すために売りたい。

しかし、100万円も貯めている人は少なく、相手に借金をさせてしまう。

自分のしていることに負い目を感じながら、苦しい日々が続きました。

当然そんな状態で売れるはずもありません。

それでも売れないのは自分の努力が足らないだけだと言い聞かせて頑張りましたが、そんな状態が長く続く訳もなく、とうとう自然とフェードアウトしていくことに。

その後も何とか現実を打破したく、代理店ビジネスなどを行い、もがきますが、やはりうまくいきませんでした。

この経験から「世の中には自分の知らない世界があること。うまい話など99%ないことを身をもって痛感されられました。」

あの時、もっと多くのことを知っていれば、違う選択肢がとれた。

今はそう思うばかりです。

しかし、過去にはもう戻れません。

今までの経験を無駄にしないために、今度は人の役に立てるように、と本サイトを作成に至りました。

自分と同じようにさまざまな活動を行っている人、今の環境に疑問をもっている人、もっとよい未来にしたい人へ、自分の失敗や経験から役立つ情報を伝えられればと思っています。

お金について考えさせれた出来事②

「ウソ!それって公認詐欺じゃん?〜ありふれた日常の中で〜」

将来的にお金を増やすにはどうしたらよいか考えていた中で、とあるクレジットカード会社主催のマネーセミナーへ行くことに。

そこで講義をしていたFPさんへ保険について相談しました。

銀行に預けるよりももっと増えるものはないか相談した結果、ドル建て、世界株式の保険を貯金の代わりにすることに。

いくら積み立ててよいか分からず、そのFPさんに相談したところ、将来的に減額も可能ということでできるだけお金は入れた方がよいと言われることに。

言われるがままに毎月2万で10年で運用していくM社の商品と、毎月5万円の世界株式で25年間運用していくS社の商品の計7万円を積み立てすることに。

これは結構な額ですよね。笑

今思えば、よくそれで生活できたなと思います。

しかし、このまま積み立てていけばバッチリだと思って生活している中、偶然、一時的に出費が重なり、7万ものお金を積み立てる余裕がなくなったわけです

そんな日が来ることは予想していましたが、思ったよりも早々に訪れました。

そこで、FPさんへ積立て額の多い5万円の方の積立て商品を1万円に減額を希望しますと伝えることに。

するとすんなり書類が届き、減額の手続きを行いました。

しばらくするとまた、保険会社から郵便が届き、中を見て驚愕することに。

14ヶ月積立てをしていましたので、5×14ヶ月=70万積立てていたわけですが、なぜか解約返礼金として20万を口座に振り込むと書かれていたのです。

「え?解約ではなく減額だから今まで積立てた70万が来月から5万ずつ増えていくのではなく、71万、72万と増えていくだけじゃないの?」私は混乱しました。

慌てて担当してくれているFPさんに連絡すると「だから前にも減額するとさんざん損するよって言ったじゃないですか!」と言われるはめに。

つまり減額=解約だった訳ですね。

確かに以前にも減額を考えていることをFPさんに伝えることがありました。

その際は「積み立てているお金が多ければ多いほど、増える額も増えるので減額しない方がいいですよ」とは言われましたが、減額=解約という説明はありませんでした。

私に不利益がありそうな時はこちらからお伝えしますと言われており、そのFPさんを信頼しきっていた私は内心「そうなら今回も教えてよ!」と思いました。

また、自分がちゃんと資料の隅々まで読んでいればこんなことにはならなかったのにと後悔しました。

そこでふと思ったのは

減額=解約だったのなら、契約当時26歳の私がこれから結婚、子どもが産まれることを考えると7万もの大金を毎月、25年間も積立てられる訳ないじゃないかと思いました。

なのにFPさんは提案してきた。

その事実が信頼を不信感へと変えました。

FPに任せておけば間違いないだろうと思っていたのに、それは間違いだったことに気づかされました。

保険には日本人のほとんどの人が加入していること、FPさんという存在を信用していた私は、これって公認詐欺じゃない?と思いました。笑

また、

これまで自分は誰かに提案されたり、任せたりすることが多すぎたんだなという反省と共に、もっと自分自身で調べたり、勉強していかなくてはいけないと改めて感じました。

何が信頼できて、何が怪しいのか、今までの失敗を糧にできるだけ最新の情報を自分で確かめながら、今も活動しています。

お金について考えさせられた③

「投資と投機の違いって何?〜東京怖い。笑〜」

とにかくお金について学び、より多くのお金を稼ぐためにてっとり早いのは安易にも「投資」だなという結論に至った私は2つの投資商品に手を出すことになります。

1つ目はFX

紹介で知り合ったの方が管理している案件で100万円〜できる投資案件です。

内容は上海の証券会社にお金を預け、トレーダーさんが3年かけてお金を増やしてくれるという案件です。

私は100万円を投資したため、3年間で100→200→400→800万、最後は30%をトレーダーに支払い、800×0.7560万になるという案件です。

その案件は現在も進行中でありますが、現在6ヶ月ほどトレードが全く行われておらず、

ネットでは詐欺の疑いが浮上しており、怪しい状態です。

2つ目は株です。

AIが株を自動売買してくれるので、月利89%という驚愕の数字を叩き出すというもので、1年で倍にしてくれるという夢のような商品です

これは以前、同じビジネススクールに通っていて同じく辞めた方からの紹介でした。

1万ドル(その時は120万円)を支払い、意気揚々と始めました。

本来月ごとに配当がもらえる仕組みだったのにも関わらず、翌月から配当が配られないという状態になりました。

その後も会社が独自に発行している仮想通貨に変えられ、現在はその仮想通貨の価値が暴落し、120万円投資したものが、数万円の価値しかありません。

スクール、保険も合わせると400万弱損をしてしまうという痛い目をみるハメになってしまいました。

もう何が本当で何が嘘か分からない。

私が「投資」だと思っていたものは「投機→ギャンブル」だった訳ですね。

根本から違っていたことに気づかなかった。

だから真剣に学んでいます。

そんな中、

こんなに失敗を繰り返したからこそ、ようやくこの経験を人の役に立つために情報を発信できることを嬉しく思います。
自分のように「現状を変えようと行動した結果、上手くいかなかった人」や「そういう詐欺に引っかかりたくないから何もしない方がいいんだよ」と考えている方達。

そういった方達にこそ、私の情報が価値あるものになるように、今後も活動していきたいと思っております。